◇師弟不二◇
第1419回
2017-04-04
師弟の道
牧口先生(3) 
 <教育勅語(1)> 
軍国主義

  牧口先生について、教え子の方々が、先生を慕い、偲びながら、さまざまな回想を残されている。
  牧口先生が白金小学校の校長を務めていた時のことである。牧口先生は、校長でありながら、ご自身も、国語や算数、修身などの授業を担当されていたという。校長となっても、つねに教育現場の最前線に身を置いて、愛する子どもたちとふれあっておられた。
  牧口先生は、習字も教えておられた。そのさい、書の基本について、こう語られたそうである。
  「書は、個性を字に表すことであって、一人一人の字は違っていてよい。そういう違いのなかでも、共通する大事なことは、希望に燃えていること、前進していく気持ちが表れていることである」と。
  この「つねに希望に燃えて、前へ進んでいく」心を、牧口先生はつねづね、強調されていた。よく次のようにも話されたという。
  「人間はつねに前進していかねばならない。つねに生きがいをもって、前進していくことだ。もちろん、人間であるから、時には失敗したり、間違ったりすることもあるだろう。その時は、反省すればよい。反省しなければ、前進はありえない。それが、最近、世の中を見ると、『反省とは″後ろ向きの教え″だから、してもしようがない』という人がいる。しかし、反省と後悔は違う。それを混同している人が多い。後悔をしても、しようがない。反省して前進していくのだ」
  まことに味わい深い教えである。
  当時の学校教育では、「教育勅語」の学習が必須とされていた。多くの教師は、子どもたちに頭ごなしに暗唱させた。しかし、牧口先生はまったく違っていた。
  たとえば、「教育勅語」の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(危急の場合は、義勇を国に捧げ)のところでは、牧口先生は、こう教えられた。「平和が大事である。平和を考えていきなさい。平和を守れば、『緩急あれば』などということは必要ない」と。
 教え子の方は、「牧口先生は、軍国主義の教育はまったくされなかった。『平和しかない』と教えた。あの時代の中で、まったく驚くべき教育でした」と述懐されている。
  世の中すべてが戦争へと傾斜していくなか、平和教育を推進されたのである。
  また、牧口先生は、『人生地理学』において、人道的競争の理念を示されるとともに、紛争防止のために信頼を醸成していくという、現在の「予防外交」にも通ずるビジョンを抱いておられた。
  この勇気、この先見、この信念――牧口先生の偉大さは、調べれば調べるほど、いよいよ深く胸に迫ってくる。
  「どんな劣等生も、必ず優等生にしてみせる」「皆を自分以上に偉大な人物にしてみせる」――これが、牧口先生、戸田先生の一貫した慈愛であり、気迫であられた。

 2001年8月21日北陸・信越合同研修会

戦争を前提に、
「お国のために命を捨てる」ことを教えた
「教育勅語」

  あの太平洋戦争。相手は、世界一のアメリカです。冷静に考えれば、とうてい勝てるわけがない。それなのに、日本は戦争を起こしてしまった。しかも、みんなは驚くかもしれないが、当時、国民の大部分は、戦争に反対するどころか、賛成したのです。それは、なぜだと思う?
  もちろん国民に「真実が知らされていなかった」ということがある。それも含めて、私は、戦争を止められなかった根本の原因は「教育」にあると思う。教育によって、国家の命令には絶対に服従するように教えこまれていた。
  「お国のため」に命を捨てることこそ、立派な生き方だと植えつけられたのです。これが「教育勅語」に説かれた精神で、みんな、それを学校で暗唱させられたのです。
 教育勅語が出されたとき、小学校一年生だった人は、太平洋戦争が始まったとき、五十八歳くらいです。その子どもたちが、およそ二十歳から三十歳。
  つまり親子二代――戦争に出ていく兵士も、送り出す親も、両方が「教育勅語」で育てられていたのです。

「希望対話」(65) 平和って何? 
 2001年8月21日北陸・信越合同研修会 他
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