◇師弟不二◇
第1421回
2017-04-06
師弟不二の道
 牧口先生(4) 
 <すべては民衆の幸福のためにある> 
 牧口先生が、一生を通じて追求されたものは何か。私どもの初代会長は、何を為そうとされていたのか。
 それは「民衆を利口にすること」であった。民衆が、自分自身の知恵を開発し、その知恵で幸福になることを目指された。そのために「教育革命(教育改造)」を唱えられ、やがて、根本的には「宗教革命」が必要だと悟られた。その道を、まっしぐらに進まれ、そして殉教──。
 牧口先生が一貫して改善しようとされたのは、「権威に従順な民衆の卑屈さ」であった。そして、民衆の卑屈と無知を改善するどころか、それを助長し、利用し、つけこむ「指導者の利己主義」を憎まれ、戦われた。
 また、人間の実際生活に根差さない空理空論を、常に批判された。
 『創価教育学体系』には、こうある。
 「従来学者ならざる一般人は、自分の頭脳では、とても六ヶ敷むつかしい理窟は考えられないから、考える事の上手な人、即ち学者として尊敬する人の考えを、無条件に承認し、これに服従するのが、生活上に間違いない方法であると、断念して生活している」(『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明者。新かなづかいは編集部、以下同じ)
 学者を僧侶に置き換えても同じである。
 ″自分で考えない″″人まかせにする″″黙って権威に従う″──これが昔からの民衆の態度であったと、牧口先生は言われるのである。
 一方、こういう従順さにつけこみ、指導者のほうは民衆を見くびって、″我々の言うことを黙って聞いていればよいのだ″と、ますます権威主義になる。
 「汝等の低い頭脳では、とても覚れる筈はない。(中略)無益の煩悶をしているよりは、寧ろ自分等の云うことには間違いないとして信頼するのが、最善の方法であると説く」
 こうして民衆は、指導者に盲従させられる。これが今までの日本の歴史であった。まさに「知らしむべからず、依らしむべし」の権威主義である。
 ゆえに「生活に学問なく、学問に生活なく」、生活も学問も、ともに貧しい。これが日本社会のゆがみであった。
 牧口先生は、これを変えようとなされた。「もはや、そんな時代ではない」と。
 「どんな偉い人の言うことでも、軽々しく信じない。同時に、どんなに地位のない無名の人の言うことでも、それが自分の経験に合致しているか、実験で証明されたものについては、自分にとっての善し悪し、損得がどうであろうと、だれもが素直に認め、従うべき時代となった。これはまた、理性に照らして当然のことである」(同前、現代語訳)
 権威が何だ、地位が何だ、有名人が何だ、学歴主義が何だ。そんなものよりも民衆が大事だ。真理を知り、価値を生んで民衆を幸せにすることが大事だ。そうではないか。
 そのための学問であり、そのための指導者であり、そのための教育であり、宗教ではないのか。そうわかれば、これまでの不幸な状態は即刻、改善すべきではないか。
 牧口先生の大音声は、今もなお切実に社会に轟く。
1993年12月8日各部協議会での語らい
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