◇師弟不二◇
第1424回
2017-04-09
師弟不二の道
 牧口先生(6)
 <同じ獄中で師の証明を誓う弟子> 
 同じ獄中にあって、戸田先生は、ただただ、ご高齢の師を心配される日々であった。
  「三日会わなければ、一年も会わないような気持ちでお仕えした」と、のちに述懐されているが、二十一歳から四十五歳まで、戸田先生は、牧口先生に仕え、ささえきられた。その師の逝去を知らされたときの落胆、怒り、悲しみ――。その、筆舌に尽くしがたい絶望のなかから、戸田先生は、ただお一人、真実の弟子として雄々しく立ち上がられた。
  その心境について、戸田先生はこう語られた。
  「よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう」(『戸田城聖全集 第四巻』)
  昭和二十九年十一月の牧口先生の法要の折にも、このことにふれられた。
 「いまはまだ先生のためになすべきことはなされていないが、かならずや一生を通して、先生の行動が正しいか正しくないか、その証明をする覚悟です」(同前)――と。
  烈々たる師弟の誓いの言葉である。戸田先生は、この宣言のとおり、牧口先生の「正義の証」を立てるために、戦いに戦いぬかれた。そして見事に、師の正義の証明を果たされた。この真摯な精神と実践にこそ、崇高な師弟の真実があると私は信ずる。ゆえに私も、戸田先生の命をわが命として、今日まで、走りに走りぬいてきたつもりである。
  戸田先生は、同じ法要の席で述べられた。

 「牧口先生と私とは、親子であると信じています。親子という意味は、先生の精神的財産を、私が受け継いだことであります」「私は、精神的財産を受け継いできましたが、またここに、大きな使命を残されました。それは、『価値論を世に出さなければならぬ』ということです。先生の精神的財産を継いだおかげで、また大きな仕事をもらったのです」(同前)
  まさに、このとおりの恩師の生涯であった。さらに戸田先生は、仏法を基調とした「平和」「文化」「教育」の運動への第一歩の理論体系についても、よく話されていた。
  ともあれ、牧口先生が生命を賭して築き、残された「創価」という広宣の精神の城、その尊き遺産を、絶対に崩されてはならない。侵されてはならない。さらに強固に、さらに盤石に構築していかねばならない。
1989年8月24日第一回東京総会
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