◆あなたに贈る 日めくり人間革命◆
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 あなたの人間革命に乾杯!
日めくり人間革命
◆使命◆
第1135回
2016-02-12
生死を超えて、汝の為すべきことを為せ! (1)

<本有の生死の苦は信心の糧となる>
スペイン女子部長の″黄金の青春″

池田 スペインに支部ができた時(1976年)の女子部長は、鮮烈な青春を生きました。そして、駆け抜けるようにして逝ってしまった。しかし、その黄金の軌跡は、今なお燦然と輝いています。
  (彼女は東京・渋谷区の生まれ〈49年〉。両親が入会した三ヵ月後に入会〈66年〉。高校の一年生、十六歳の時であった)
 彼女は、高等部で「世界広布のお役に立ちたい!」という夢を抱き、語学も頑張ったようだ。優秀だった。
  (病気の家族を介護しながらの受験勉強で、二浪した)
  二十歳の時、思わぬ試練に襲われた。お母さんががんで亡くなり、後を追うようにお父さんも病死してしまった。あっという間に天涯孤独の身になってしまった。進学どころではなくなった──。
  私が彼女に会ったのは、その一年後です。夏季講習会だった。両親の死を語る彼女に、私は言いました。「そうか。でもあなたたちの年齢なら、この先、必ず二回経験しなければならないのが、親の死ということです。それをあなたは、皆より少し早く一度に経験してしまっただけのことです。御本尊様がついているから大丈夫だよ!」と。
  彼女は、あるいは慰めてほしかったのかもしれない。しかし私は率直に、人生の本当の真髄を語ってあげたつもりです。「本有の生死」です。死は必ずやってくる。その現実から逃げるのは、仏法ではない。
  大聖人は薬王品の経文でさえも、「正確ではない」と読みかえておられる。『一切の苦、一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう』(法華経597頁)の経文です。
斉藤 この「離れる」「解かしめる」というのは煩悩即菩提、生死即涅槃という法華経の心に背くと言われていますね。
  ゆえに大聖人は「離の字をば明とよむなり、本門寿量の慧眼開けて見れば本来本有の病痛苦悩なりと明らめたり{」と読みかえられた。
  「あきらめる」とは「明らかに見る」ということです。「本来本有の病痛苦悩」である、「本来本有の生死」である、と明らかに見なければいけないと。
  池田 その通りだ。「生死」といっても、宇宙生命の変化相です。仏の命の現れです。だから「生死」を嫌うことは、仏の命を嫌うことに通じる。  また生死の苦しみに溺れることも、仏という大生命に遊戯する身とはいえない。
  生の苦しみも、信心を強める糧にする。死の苦しみも信心を強める糧にする。それが生死即涅槃です。とはいえ、彼女は、若き身でつらかったでしょう。女子部の人材グループの一員になった彼女を、私はたびたび励ました。一緒に皆で農場に行って、スイカやトウモロコシを食べたことも懐かしい。
  彼女は職場でも、女子部の活動でも、もちまえの「明るさ」と「粘り強さ」で、目を見張るような結果を出していった。
そして入会からちょうど十年後に、高等部時代からの「夢」をつかみとって、憧れのスペインに留学できたのです。
 (着いて二週間で、スペインで初の支部が結成され、支部結成式で女子部長に任命された)
  彼女は駆けた。草創期のスペインの大地で「カトリックの大地に題目をしみこませるんだ!」と言って、いつも題目を唱えていた。座談会に行くのに、車で往復十時間というのも、しばしば。会合から戻ると、明け方まで、御書や「大白蓮華」を一文一文、翻訳していった。
  彼女は言っていたという。「苦労だなんて、とんでもありません。一人のスペイン人が立ち上がるたびに喜びに変わります。盤石な日本の創価学会しか知らなかった私には、大変というよりも、草創の苦労を体験できる喜びのほうが大きいのです」と。
(つづく)
法華経の智慧 薬王菩薩本事品 第二十三章
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