◆あなたに贈る 日めくり人間革命◆
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日めくり人間革命
◆仏敵◆
第1085回
2015-12-05
反逆者の本質は修羅の“慢”
<他人を見下す慢心>
外面では人格者を装い、内面では「勝他の念」で燃えている
修羅界──他人を見下す慢心
遠藤 修羅界の「修羅」とは「阿修羅」のことで、梵語のアスラの音訳です。古代インドでは、正義の神の一つでしたが、やがて魔神として位置づけられるようになりました。
須田 日蓮大聖人は「諂曲(てんごく)なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「諂(へつら)い」「曲がった」心のことです。「諂(てん)」も「曲(ごく)」も「心が曲がっている」ことです。なかんずく「自分の本心を見せないで、従順をよそおう」のが「諂い」です。
遠藤 「修羅」というと、何か「肩をいからせて、いばっている」姿を思い浮かべそうですが、「へつらう」というのは、イメージが反対です。修羅の境涯は、一見、大変に謙虚にさえ見えるということでしょうか。
池田 そこに問題がある。修羅は「慢」の生命です。「慢」は、七慢・九慢など、いろいろ分類されているが、要は、他人と自分を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩です。
いわば″自分はすばらしい″という自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていくのです。だから人にも「すばらしい人だ」と思われるために、「本心を明かさない」──すなわち「諂(へつら)う」のです。
遠藤 本心と外見が違っているわけですね。だから、心にもないことも言う。これは三悪道にはなかったことです。かなり知能犯というか、ある意味で、高級になっているわけですね。
斉藤 たしかに、修羅について天台は、内面と外面が違うと述べています。「常に他人に勝つことを願い、それが叶わなければ、人を見下し、他者を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろすようなものである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を見せようとして、下品の善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(『摩訶止観』)。内面では、自分より優れた者の存在を許せない。人を心から尊敬することができない。自分だけが偉いと思っている。「勝他(しょうた)の念」を燃やしている。
しかし外面では、そういう心を、おくびにも出さない。仁・義・礼・智・信を備えた人格者のように振る舞う。そうすることによって、「人格面でも優れている」と人に思わせ、あるいは、自分でも思いこもうとするのかもしれません。
遠藤 「これほど謙虚な自分は立派なのだ」と慢心したり(笑い)。
須田 内面と外面が違う。「うそつき」だということが修羅の特徴ですね。
池田 同志を裏切っていった反逆者は、そういう連中であった。外面に、だまされてはならない。
斉藤 たしかに、「諂曲」とある通り、かなり「曲がって」います。
池田 そう。心が「曲がっている」から、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、すばらしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長がない。
「御義口伝」には「上慢(増上慢)」と「我慢」についての文句記の文を挙げられています。『疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す』(御書718頁)と。
斉藤 自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが「増上慢」。とくに、仏道修行の成果を得ていないのに、得たと傲ることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしないのが「我慢」です。
池田 法華経の方便品には、悪世の衆生は「我慢にしてみずから矜高(こうこう)し諂曲にして心不実なり」(法華経132頁)と説いている。我慢の心が強く、みずからを誇り、高ぶっていながら、心は曲がり、率直でも誠実でもない、と。その通りの世相ではないだろうか。
法華経の智慧 如来寿量品(第十六章)十界論(中)
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