◆あなたに贈る 日めくり人間革命◆
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日めくり人間革命
◆慢心◆
第1295回
2016-11-08
周恩来総理夫人に学ぶ(4)

 <増上慢の特徴――嫉妬、嘘、利用、破壊>
 僣聖増上慢の特徴の一つを、法華経では「人間を軽賎する」と説く。
 「民衆蔑視」である。
 彼らが民衆を蔑視するのは、自分自身の心が醜悪だからである。自分が醜いから、人間を尊敬できない。
 だから、口先ではどうあれ、心の底では、「すべての人間が成仏できる」という法華経の教えを信じてはいない。いわんや、自他ともの幸福のために、真剣に広宣流布に戦う人の心など、とうてい理解できるわけがない。
 彼らが信ずるのは世間の名誉や利得だけである。宗教も民衆も、そのための道具にすぎない。
 法華経には「利得を貪るために、在家信者のために教えを説き、悟りを得た聖者のように、世の人々に尊敬される」と説かれている。

 慢心の、もう一つの特徴は「嘘」である。
 大聖人は御義口伝において「疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す」――自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが増上慢である――という妙楽大師の言葉を引いておられる。
 自分の欠点を隠し、ありもしない自分の徳を宣伝するために、嘘をつき通すのである。見栄っ張りであり、偽善者である。しかも、その嘘を恥じないし、反省もしない。
 また増上慢の人間は、自分の欠点を、法華経の行者の欠点として説く″すりかえ″の名人である。
 たとえば、僣聖増上慢は、宗教を利用して、自分自身が名聞名利を貪っている。
 そういう卑しさを省みることもなく、かえって、法華経の行者の戦いを「名聞名利のためである」と中傷する。権力者をはじめ多くの人々に向かって、この中傷を繰り返すのである。
 自分自身の欠点を直視できずに、かわりに他人を攻撃する。自分の中の悪を破壊できず、かわりに他人を破壊しようとする。これが増上慢である。
 この「破壊魔」を絶対に放置してはならない。戦って、戦い抜いて、打ち破るべきである。少しでも妥協したならば、広宣流布の土台を崩してしまう。そうなれば人類の未来に希望はない。
 悪と「徹底して」戦う。それが仏法である。それが信心である。
 「徹底して戦う」信心だけが、広宣流布の永遠の発展をもたらすのである。
 増上慢の生命は、十界で言えば、「修羅界」に当たる。勝他の念である。″どうしても他人に勝ちたい″″相手を見くだしたい″という、ゆがんだ心である。
 修羅界について、天台は『摩訶止観』で次のように言っている。
 「つねに他人に勝つことを願い、その心を抑えきれず、人を見くだし、他人を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろす姿のようである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を掲げて、(表面的で、自己満足の)低級な善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(御書430頁、通解)と。
 増上慢の人間は、「人に勝つ」欲望に支配されている。「自分に勝つ」ための精神闘争がない。ゆえに自分の境涯の向上はない。策動すればするほど、自分自身が転落していく。
 彼らは、嘘をつき通したり、自分を飾って宣伝したり、法華経の行者を迫害するために策略を練ったりと、悪事に忙しい。大変なエネルギーを使っている。
 しかし、それらは結局、不毛である。自身の境涯の変革もなく、人を傷つけ、自らも地獄界に堕ちていく。
 彼らにたぶらかされた者も、ともに地獄界へと堕ちていく。こんな悪人に、絶対に、だまされてはならない。たぶらかされてはならない。
 増上慢の本性は「臆病」である。彼らは慢心しているゆえに、自分を大きく感じる。
 修羅の姿は「身長みのたけ八万四千由旬・四大海の水も膝を超えない」とされる。
 しかし、修羅は、自分の実力が及びもつかない偉大な帝釈と戦った時、とても敵わないので、池の蓮の穴に逃げ込むほど小さな身となった。この「小さな身」が、修羅の正体である。
 大聖人は「おご傲れる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくにせ責められて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」――おごれる者は、強敵に会うと必ず恐れる――と仰せである。
 増上慢の人間は、″本物″である法華経の行者が現れると、自分の本性が、あぶりだされてしまうことを怯える。聖者とか人格者とか信仰者という仮面を、はぎとられてしまう恐怖に、身ぶるいする。
 そこで、法華経の行者を逆恨みして、なきものにしようとするのである。
(つづく)
池田大作全集(90) 1.26「SGIの日」記念協議会 (1999年1月27日)
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